未完の冬眠
第一章:春 目覚めの雪
——春原完治の手記より
雪はまだ降り続いていた。
北国の湖畔に建つ古びた別荘。その玄関を開けた瞬間、凍てつく空気とともに、焦げた薪の残り香が漂ってきた。
「……冬美?」
応答はない。
胸騒ぎを覚えつつ、奥のリビングへ進むと、暖炉の前に彼女が倒れているのが見えた。
「——冬美!!」
駆け寄り、肩を抱き上げる。
唇は紫色に変色し、身体は氷のように冷たい。震えもせず、ただ静かに横たわっている。
ポケットからスマートフォンを取り出し、手早く救急車を呼ぶ。意識が朦朧としながらも、彼女の脈を確かめた。弱いが、まだ生きている。
(なぜ、こんなことに……)
彼女は俺の婚約者だった。過去形で考えてしまう自分が恐ろしい。
この冬、別荘に来た理由はただ一つ——最後の話し合い。
俺たちの関係は、もう修復不可能だと思っていた。冬美には忘れられない過去があり、俺にも譲れないものがあった。
だが今、彼女を失うかもしれない現実が目の前にある。
—–
病院の集中治療室。
人工呼吸器の音だけが規則正しく響く。
医師の表情は重く、診断は重度の低体温症。さらに、胃の内容物から未知の薬物反応が検出されたという。
「研究所から実験中の薬剤が盗まれてる。あなたが開発している”冬眠薬”ですよね?」
刑事の秋山環希が俺の前に座る。彼女とは高校時代からの付き合いだ。登山部で一緒だった。
「……そうだ。ただし、まだ未完成の段階だ。動物実験でも安全性は確認できていない」
冬美が登山の途中に見つけた山野草からヒントを得て私が開発中の”トミスリン”。
「それを服用したとしたら、どんな影響が?」
「体温を下げ、代謝を著しく低下させる。理論上は冬眠に近い状態を作り出せる。ただし——」
俺は言葉を詰まらせる。
「副作用が予測できない。だから人体実験はまだ早いと上司に止められていた」
環希の目が鋭くなる。
「その薬の成分が冬美さんの体内から検出された。偶然とは思えない」
状況は最悪だ。容疑者として疑われるのは当然だった。しかし、俺は何もしていない。
ただ——あの雪山の記憶が頭をよぎる。
十年前、俺たちは山で遭難した。
冬美が低体温症で意識を失いそうになった時、俺は何もできなかった。ただ震えて、彼女が死ぬかもしれないという恐怖におののいていただけだった。
あの時の無力感が、俺をこの研究に向かわせた。
極限状態でも人は生き延びられる——そんな薬を作りたかった。
皮肉にも、その未完成の”トミスリン”が今度は彼女の命を脅かしている。
「目を覚ませ……冬美……」
俺はただ、祈ることしかできなかった。
—–
第二章:夏 凍れる命
——夏目夏樹の診療記録より
患者:冬野冬美(27歳、女性)
診断:重度低体温症、原因不明の薬物反応
救急搬送時、体温は28度まで低下。意識レベル重篤。
胃洗浄により未知の化合物を検出。成分分析を依頼中。
私は彼女の主治医として治療にあたることになった。
——正直に言えば、それは偶然ではない。
冬美とは高校時代から知っている。登山部で一緒だった。
彼女が春原と婚約したと聞いた時、複雑な気持ちだった。
救急からの問い合わせを聞いてこの病院に搬送してもらった。
医師として、一人の人間として、彼女を救いたい。
それが今の私の全てだ。
体温管理、薬剤投与、モニタリング。
治療は困難を極めた。彼女の身体はまるで本当に冬眠に入ろうとしているかのように、すべての機能が著しく低下していた。
春原の研究していた冬眠薬”トミスリン”——それが原因だとすれば、どう対処すればいいのか。
文献を調べても前例がないが、似たような症状で搬送されてきた患者を治療した経験があるからおおよその治療方針はすぐに定まった。
「先生、面会の方が」
看護師に呼ばれ、待合室に向かう。
春原が疲れ切った顔で座っていた。
「夏目……冬美の状態は?」
「安定はしている。ただし、まだ予断を許さない」
彼の顔に安堵の色が浮かぶ。
「頼む。彼女を救ってくれ。俺には……俺にはもう何もできない」
春原の手が震えているのに気づく。
彼もまた、あの雪山の記憶に囚われているのだろう。
「必ず救う」
私はそう約束した。医師として、そして——彼女を愛する一人の人間として。
—–
第三章:秋 記憶の吹雪
——秋山環希の捜査記録より
事件発生から一週間。
冬美の容態は安定しているものの、意識は戻らない。
彼女が事件当日所持していたのは、スマホや財布といったもののほかには、春原からもらったであろう雪の結晶の形をした指輪とイヤリング、そしてあの”サプリ”くらいのものだった。
私は捜査を進めながら、十年前の記憶と向き合っていた。
あの雪山での遭難。
四人は高校の登山部のメンバーだった。春原完治、夏目夏樹、冬野冬美、そして私。
吹雪で道を見失い、一夜を山で過ごすことになった。
体温を保つため、皆で寄り添い合った。でも冬美だけが異常に寒がりで、低体温症の症状を見せ始めた。
毛布は一枚しかなかった。
迷わず冬美に渡したが、それでも彼女の唇は紫色に変わっていく。
春原は自分の上着を脱いで彼女に着せた。
夏目は医学の知識を使って応急処置をした。
私は——私は何もできなかった。
ただ見ているだけ。
皆が冬美を救おうとする中、私だけが無力だった。
その記憶が、今の事件と重なって見える。
研究所への聞き込みで分かったことがある。
開発中である冬眠薬”トミスリン”の盗難が可能な関係者は限られている。
春原に話を聞く。
「最近、研究に協力してくれる人はいたか?」
「……夏目が何度か来ていた。低体温症の治療経験もあるし、医学的な見地からアドバイスをもらっていた」
意外な答えだった。
「夏目医師が?」
「ああ。冬美の冷え性がひどくなっていると聞いて、何か手伝えることはないかと」
私の中で何かがひっかかる。
夏目は医師だ。地元の製薬メーカーとのつながりもあるだろう。
そして——彼もまた、冬美に特別な感情を抱いていた。
病院で夏目に会う。
「冬美さんの容態はいかがですか?」
「安定している。ただ、意識が戻る兆候はまだない」
「ところで、春原さんの研究所に出入りしていたそうですね」
夏目の表情が一瞬強張る。
「低体温症の治療にあたった経験から症状や治療方法の相談を受けていました。医師として、できる限りの協力をしたかった」
「”トミスリン”についても知識があった?」
「冬美が見つけた山野草にヒントを得たことくらいは……」
私は確信に近いものを感じていた。
でも、動機がわからない。夏目はなぜそんなことを?
その夜、冬美の病室を訪れる。
彼女はまだ眠り続けている。
「起きて、冬美。真実を教えて」
私はそう呟いた。あの雪山の夜から、ずっと彼女に言えずにいた言葉とともに。
—–
第四章:冬 眠りの淵
——冬野冬美の意識の断片より
深い闇の中で、私は記憶の断片を辿っていた。
あの別荘での最後の記憶。
誰かが持参した「冷え性に効くサプリメント」を飲んだこと。
それを渡した人の顔は——霞んでいる。
でも声は覚えている。
優しくて、心配そうで、どこか切ない声。
「これを飲めば、寒さを感じなくなる。もう震えなくて済む」
私は何も疑わずに飲んだ。
その人を信じていたから。
でも——なぜ?
なぜ私にそんなことを?
記憶が無意識のうちに過去を振り返っていた………
—–
第五章:未完の青春 あの日の優しさ
——冬野冬美の記憶の断片より
闇の中で、意識の縁を彷徨いながら、私はあの頃のことを思い出していた。
十年前——高校一年の春。
[春]………
新しいクラス、新しい出会い。
中学が別だった私は、新しいクラスに馴染めるか緊張していた。でも、声をかけてくれたのが春原くんだった。
「君、読書が好きなの? 俺も図書室でよく本を読むんだ」
その一言が嬉しかった。
やがて彼は登山部を作りたいと言い出し、勧誘を始めた。
ボソボソと話す環希ちゃん、陰のある夏目くん。三人に声をかけたのも、全部春原くんだった。
私は迷わず、登山部に入った。
理由は簡単。好きな人が登山部に入部すると知ったから——
だけどそれは、きっと私だけじゃなかった。
[夏]………
初めての登山。夏の青空が眩しかった。
私が山道の傍で珍しい雪の結晶のような形をしたかわいい山野草を見つけ、それを写真に撮ってくれようとした夏目くんが転げ落ちそうになった時は本当に怖かった。
彼のメガネは落ちてしまったけれど、そのあとみんなで彼の手を引いて最後まで登り切った。
きっとあのとき、距離が縮まったんだと思う。いや、その前から始まっていたのかも。
「まだ君に見合う僕ではないけれど、そんな僕を受け入れてくれますか?」
星空の下、夏目くんがそう言った。
私は何も言えなかった。でも、心は確かに揺れた。
翌日、環希ちゃんに相談したら、彼女は優しく微笑んだ。
「好きなら、素直になったほうがいいよ」
——それを理由にするわけではないけれど背中を押してくれたことは間違いなかった。やがて私は夏目くんと付き合い始めた。
[秋]………
二年生になっても、私たちは仲の良い登山部だった。
でも——それだけじゃなかった。
ある日、春原くんが登山グッズを見に行こうと提案してきた。
私は、とっくに秋山さんの気持ちに気づいていたし、春原くんと二人きりになるチャンスをあげたくて、二人には内緒で夏目くんと出かけて、あの時見つけた山野草をモチーフにしたイヤリングをプレゼントしてもらった。
あのイヤリングは今でも大切にしまってある。
本当は、春原くんの誘いには応えたかった。でも、それ以上に秋山さんに報いたかった。
その頃の私は、誰かのために自分を犠牲にするのが“優しさ”だと思っていた。
——でも、それは本当に優しさだったのかな。
[冬]………
三年生の冬。
受験前、最後の登山は最悪の天候に見舞われた。
吹雪、遭難、避難小屋。
皆で寄り添い、春原くんの上着を借りて、夏目くんの知識に救われた。
毛布は一枚だけ。秋山さんが無言で譲ってくれたのが、今でも胸に残っている。
——あの時、本当は誰が一番寒かったんだろう。
私が毛布を独り占めして、入院して、受験に失敗して……
自分だけが取り残された気がした。
夏目くんとのすれ違いが増えたのもその頃からだった。
でも、あの頃——私が本当に欲しかったのはなんだったのかな?………
記憶が、意識とともに浮上する。
目を開ける。薄暗い病室。聞き覚えのある声。
——環希ちゃん。
私の言葉が、唇を震わせて出る。
「……あの時、毛布をくれたのは……あなた、だったんだね」
—–
第六章:真実 それぞれの選択
——病院にて
冬美が意識を取り戻したのは、事件から三週間後だった。
私(環希)は病室で彼女の話を聞いた。
「あの日、別荘に最初に来たのは夏樹さんでした」
冬美の声は弱々しいが、はっきりしている。
「完治さんとの話し合いの前に、私に会いたいと言って、それで冷え性の薬を持参してくれたんです」
私は愕然とした。
夏目を問い詰めると、彼はあっさりすべてを認めた。
「春原を犯人に仕立てて、冬美さんを取り戻したかった。冬眠薬からの回復は、自分の医師としての力でどうにかできると思い込んでいた…。」
「冬美は春原との婚約を終わらせるために、あの別荘に行ったのよ。それなら、こんなことをしなくてもよかったはず。」
私は声を震わせて問いかける。
「あなたは、彼女をただ危険にさらしただけ。それが本当に愛だと言えるの?」
夏目は俯き、かすかに唇を噛んだ。
「……わかっている。医師として、人として、許されないことをした。」
彼の動機は一途だったが、その愛情は自己中心的な執着と化していた。医師としての倫理を見失い、他者の自己決定権を奪ってしまった自分の愚かさを、今ようやく痛感しているようだった。
未完成の”トミスリン”は予想以上に危険で、過去の出来事から人を救うために開発を進めていた冬眠薬が、皮肉にも彼女の命を奪いかけたのだ。
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第七章:湖畔にて 未完の未来
一年後——
雪解けの季節。湖畔の桟橋で、冬美と菜穂は並んで座っていた。
「あの事件の後、みんなバラバラになっちゃったね」
冬美が静かに言う。
春原は研究を諦め、別の道を歩んでいるらしい。夏目は医師免許を失い、罪を償っている。
「でも、私たちは生きてる」
環希は答える。
「そうね。生きてる」
冬美は微笑む。以前よりも強い笑顔だった。
「環希ちゃん、あの雪山の夜のこと、覚えてる?」
「もちろん」
今の環希は、事件の時のような刑事の顔ではなく、ただの友人として冬美に向き合えていた。
「私、目覚めた時に思い出したの。環希ちゃんが一番寒がってたんだって」
環希は驚く。
「みんな私のことを心配してくれてたけど、環希ちゃんだけは自分のことより私を優先してた。本当は毛布が欲しかったのに、黙ってくれてた」
そうだった。私はあの夜、きっと誰よりも寒かったんだと思う。でも冬美たちのことを思うと、何も言えなかった。
「私が本当に欲しかったのは、毛布じゃなかった」
冬美は遠くを見つめる。
冬美の指から、雪の結晶は消えていた。
「隣にいてくれる人の温もりだった。」
菜穂の胸が熱くなる。
「私も」
二人で湖面を見つめる。氷は溶け、春の気配が漂っている。
「この先、どうなるんだろうね」
冬美が呟く。
「わからない」
環希は素直に答える。
「でも、それでいいのかもしれない。完成された答えはまだ出ていないけれど、そのまま季節は進んでいくんだよ、きっと」
「私たちらしい未来ね」と環希。
「そう。完璧じゃないけれど、それが私たちらしい」「…うん」
風が湖面を渡っていく。
私たちの物語も、きっとこの風のように、どこに向かうかわからない。
でも——それがいい。
終わらないからこそ、思い描けなかった希望がある。
環希は湖畔の向こうに見える山々を見つめながら冬美の手を取り、静かに呟いた。
「また春が来るね。」
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